昭和48年12月02日 朝の御理解



 御理解 第30節
 「神を信ずる者は多いが、神に信じられる者が少ない。」

 神に信じられる氏子にお取立て頂こうというのが信心です。神様に信じられる氏子にお取立て頂きたいというそれが信心です。神を信じれる者とこういうが、それは有神論とか無神論とか申します。いえ俺は神様はあると思う。俺は神様なんて無いと思うと言う様な言い方をいたしますね。只そう言う様な有神論者的な神様ではない。そういうものは恐らくはなら日本人が千人おるとするならば、千人の中の恐らくは500人は、半分は有神論者が居るだろうと思うです。
 だがそういう意味ではない。私は神を信じるというのは、神様の働きを信ずると言う事になってこなければならない。神様の働き、然もその働きがです、もう、微に入り細にわたって私共に働きかけておって下さる。ですから本当言うと、神に信じられる氏子が少ないと仰られますけれど、本当の事は神を信ずる氏子も段々少なくなってきたと言う事。神様を信じていない。又の御理解に、金の杖をつけば曲がる、木や竹は折れる、神を杖につけば楽じゃと。
 その神様を信じて神様を杖にする。いわゆる神様にお縋りし貫いておればです、楽じゃというおかげが頂けるところまで、神様を信じておらなかったら、信じているとはいえませんよね。只有神論者であっては駄目。いや私は神様はあると思う。お取次を頂いて、こんなおかげを頂いた事がある、といった程度の信じかたでは駄目。神を杖につけば楽じゃという程しの神を頂かにゃ。そういう神様を頂いて、初めて神に信じられる、いわゆる段階になると思う。
 神に信じられると言う事は、御神徳を受けると言う事です。御神徳というのは、神様が氏子に対する、神の信用じゃと言われる。ですから先ずは神を信じれる所まで、神様にお縋りしとけば大丈夫と、心に安心が生まれる程しの神様を頂いてこそ、初めて神様を信じておると言う事がいえる。ですからまず信心まず信じなさいというて、まず信じれるおかげを頂く為に修行が必要だと。これはね神様をいよいよ信じれる為にはね、修行が必要です。しかも本当いうたら、無条件の修行じゃなかなにゃいけません。
 神様が分りたい神様の心が分りたい、神様が知りたいそういう一途なもの。おかげを頂かんならんから修行するというのはね、おかげをもし頂かなかったら、神様もよい加減なもんだと、反対に信じられなくなっちゃう。神様はこちらが修行すりゃ、思う通りのおかげを下さりゃよいですよ、ああやっぱり神様はござる。神様は右と願って却って反対のことしか下さらんような事があるんです。
 ですからおかげが目的の修行では本当なものじゃない。だから此処へは信心の稽古に来るところと仰るから、おかげを頂くと言う事でなくて、信心の稽古、稽古ごとに修行の伴わないものはありません。まして信心、あの世にも持って行け、この世にも残しておけれる程しのもの。日々が有難い勿体ないで過ごせる程しの心の状態を、頂かせて頂こうというのですから、もう此処二、三日私が申しておりますようにね、あのね何か何んと言うてもこの心を頂く事が先決なんですよ。
 人間の幸せの根本なんです。まあ商売をさせてもらう。資本を貯めてこつこつと貯った。貯ってから店を開く。そんな事では心もとない。人間の本当の幸せと言う事に繋がるか繋がらないかわからん。けれども今私が言う神を信じる。神の働きを信ずる心、この心が確固たるもの、成程この神様は心一つでおかげが受けられる。和賀心一つでおかげが受けられると仰るが確かにそうだなと。この信心が出来たら資本は要りません。もう絶対資本は出来てくるです自ずと。
 いわゆる此方の道は傘一本で開ける道といわれておりますのもそうです。先生方が布教に出る。何にも持って行かんで良か。この心さえ頂いとれば、神を杖につけば楽じゃと言った様な、心の状態までに心が高められる。そういう例えば心の状態を、それはね限りがない事ですから、ここからこれまでと言う事じゃないです。けれどもね確かにね、私共おかげは和賀心にあるのだから、どういう場合であっても、腹の立つ事もある、心がぐうっとする事もあるけれどもです。
 これではおかげが受けられんと信ずる事なんです。そしてどうかしてこの暗い心腹立たしい心を、有難い心に持って行こうと言う事に極まったという精進をすれは良いんです。おかげは和賀心にあるんだと。だからその心のいわば確認という事がいわれる。その為にやはり、只のんべんだらりとしておってから、腕こまねいておってから、神が分りたい神が分りたいと言ったって、いくら有神論者であっても、神の働きを微に入り細に渡ってこの様な事にまで、この様な所にま、お働きを下さると言った様な働き。
 いわゆる体験を得る事は出来ません。だから修行なんですけれども、まあいきなりさんぱちしたっちゃいかんです。本当にやり貫けれると言った様な時があるのです。季節というものがある時節というものがある。例えば西瓜でも早過ぎたらべっ酢いか。一寸遅れたらもう崩れてしまっておると。だから丁度良い頂き頃というのがあるんです。だからそこんところを信心の稽古をさして頂いておると、こりゃここでいっちょう踏ん張らにゃんぞ、ここで一修行せんならんぞと感ずるんです。感ずる判る様になるです。
 今が食べ頃と言う事が、だから今が食べ頃と言う所で頂かなければ、いわゆる神をここに視る神を此処に感ずる、ここに神の声を聞くという程しの働きになってこない。まあ私は度々の事ですけれども、昨晩ばっかりは私は恐れ入ってしもうた。もう起きかけに家内と二人話しました。もう本当に恐れ入った。昨晩お月次祭を終わらせて頂いてちょっと気分が悪い。お祭りが非常にきつかった。丁度お祭り前にお客様がありましたもんですから、一寸お神酒の御相手をしておった。
 そすと私が一日の内に何回かきつくなって来るとき一緒になった様な感じでした。お祭りのお説教の時なんか本当にきつかった。けどまあ一生懸命おかげを頂いておる内に、おかげを頂いて共励殿に下がったらある人が、親先生というてからまあいうなら、けたたましいそのお届けがあった。私がこちらに出掛けに家内が出血しよりました。所がいま大出血をしたというて。今病院に運ばれたという、電話が掛りましたというのです。私は昨晩退ってからもう大変まいうならば、と言う大変なお届けが二つあった。
 だから私しは夜中にまだ繁雄さんと高橋さんがおられましたから一緒に此処で出てから、ここで御祈念させて貰った。夕べ遅くでした。もういわゆる体が寒うして堪らん。とにかくどれだけ着ても、どれだけ着ても温まらん。もう足なんか冷ぇたくしとる下半身が、もう繁雄さんから一生懸命こする様にして貰うけども温まらん。とうとう夜中に家内を起こしましてから毛布かけて貰い、布団をかけて貰うても温まらん。
 その間に勿論昨日も一睡もしませんから、勿論その間に色々頂かせて頂く事、もう頂いてからもう恐れ入ってしまいました。例えば女の方の出血と男の出血とは違いますよね。違うけれども私は出血しましたよ。小便徳利に二杯いった。もう昔もありましたこういう事が。後でそれをその時は気がつかなかった後からわかった。ははあ今日先っきから大出血のお届けがあった。あれはそれだなともうしかもそれがどうですか、今日の三時十五分には私はいつも起きる。三時十五分きっかりにさぁっと温まったんです。
 もうとにかくぞごぞごするとが、もうそれこそあのう爽快な清々しい気持ちで、いつもの通りに三時十五分に起こして頂いた。もうほんとにお母さん私しゃもう度々の事ながら恐れ入ってしまうばいち。自分で小便片付けとりますからね、知っておるわけですよ。血が入ってるですから。神様に私その事をお願いさして頂きましたらね、まいろんな事頂きました。あの石川五衛門の釜入りというのがありますよね。
 まあそう言う様な場面ですけれども、まぁあれは石川五衛門というよりも、天野屋利兵衛と言った方が良いかも知れませんね。あの天野屋利兵衛が責められる時に、子供を折檻されますね。だから自分はどげん責められてもよいけれども、子供を責められるのが一番きついというわけです。昨日私が二つの止むにやまれんお届けというのは、私にとってみれば二人ながら親先生、親先生と言われておるのですから、私がやっぱり親なんです。その二人が責めら立てられているわけなんです。
 いうならそこで子供が責められるとがもう、きつうてこたえん。まんがに何とかいう昆虫のね、マンガがありまよね。あのう親なしの何かハチなんかが、あのずっと親を探してまわってね、それでいろんな動物に大変こなされたり、親切にされたりして、こう親を探して行くというあれなんです。そういう場面やらも頂く。此処で私がひとつこの人は、暖かくしてやらねばというたり、又あんまり責められるのを見てから、もう神様もう私が責められる分はかまわんから、此処をちょっと助けて下さい。
 子供だけは助けて下さいと言った様な所もあったんです。そして頂きましたことが、あのう大根ですね。大根の細ぉい大根のくの字に曲がった大根を頂いた。どう言う事と思いますか。大根と言うのはあれは修行が足りんとい時に頂くんです。苦労なし、白うしとるから,黒うないというところ、あんまり楽すぎると然もそれがくの字になっとる。曲がった大根、はっきり大根でくの字を頂いた。だからね、本当に苦労を感ずる時にはね、苦労を苦労と感じる時には、修行が足らん時と思うて間違いない。
 苦労と難儀を感ずる時にはです、いわゆるくの字でいく日頃の修行が足らん。そらここぞと言うて修行さしてもらうチャンスを神様がヒントを与えござるけれども、それをしだごだしてしまう良い加減にする。例えば例えば鴨居一つで頭を打った時です、あらっと思う位の神経が要る信心が要る。何か御無礼が出来たなと言った様なその心の状態にならにゃ、そして成程そうやって自分の心を見つめて見るとあるわあるわ、それはこう言う事がお粗末になって鴨居に頭をいやという程打ったんだなと言う事が分る。
 そこでお詫びが出来ると言う様にね、叩かれたり色々しとるけれどばもほけんごとしとる場合がある。苦労が足りん。さあそれこそ信心さして頂くものは一生が修行じゃとおおせられるのに、どがしこ修行してもしかし信心の修行というものはあの世にも持っていけ、この世にも残しておけるという程しのものだから、私共はいつも修行と言う事を忘れちゃならん。しかも修行には食べて頂くというものがある。
 西瓜の食べ頃があるように、そこんところを私共が見極めさせて頂けれるひとつ信心のま信心のセンスのようなものが必要なんです。それが段々稽古していくうちに分って来る。そこでなら昨日私が寒かった、苦しかったけれどももうゆうべばっかりは高橋さんと繁雄さんば、もいっちょ呼びに行ってもらおうかという位きつかった。けれどもその事頂いてから、本当に私が修行しますから、子供は助けて下さいと言う様な生き方ですから、もうきついけれどもそれが有難かった。
 日頃こっちの修行が足らん、だからさあ例えばそういうその二人のぎりぎりのお届けがゆうべ夜中にあったんです。御祈念がお祭りが済んでそこでお願いしたけれども、私の力が足りなかった そこで例えばどんなに考えても不思議で、不思議でたまらんような体の状態にならせて修行させてござる。いわゆる大根がくの字になっておる。苦労が足りない、修行が足りない。修行が足りないでは人が助からん。そこで修行させて頂いとる事が有難いと思うておりましたら、もう本当になんというでしょうかね。
 手の平を返すようなとはあんなでしょう。もう三時十五分きっかりに、下半身が寒かった、冷たかったのが温まる。そして今までとにかくぞごぞごしよったのが、おかげを頂いて寒さもなにも取れてしまう。ああこれでおかげ頂いたというわけなんです。だからそういう例えば私共は場面をです、通らせて頂いて、神を信ずるなというても、信じんわけにはいけない事実を沢山私共は頂く。それを信仰体験と言う。
 そこから神様、神様がねそれこそもう本当に条件に及ばん様な働きをこういう働きまで下さるというものを、そういう神の働きをこの五体に感ずる、心に感ずる。しかもその神様がです、私共に願うてござると言う事を段々分らせて貰う様になるから、今度は神の願いに立たせてもらう。神願御成就の為に私共が修行をすると言う事になってくる時にです、神様の信用がついてくる。あの氏子はもう大丈夫あの氏子はいうなら、私の手にも足にもなってくれる。
 そこに神に信じられるものが少ないという、少ない方の部に入らせてもらえる。おかげを受けられるのです。先ずは神様を信ずる。その神様を信ずるというのは、只いいえ私は神様はあると思う、いいえ私は神様は無いと思うと言った様なものじゃない。神様の働きをじかに感じさせて貰えれる信心、神様の働きに恐れ入るという日々その恐れ入った生活が出来ると言う事が信心生活。
 そこでその神様の心がわかってくるから、神様のいわゆる御神意を体し、いわゆる神様の御心に添い奉る生き方にならせて頂くところから、神様の御信用がいやがうえにもついてくる。それを御神徳というものである。御神徳を受けると言う事は、人間の幸せの条件のすべてが足ろうてくる。しかもそれはあの世までも持って行ける。勿論子孫にも残しておけれると言う程しのもの。神に信じられる者が少なく、神に信じられる前提として、まずは神を信ずる。
 神の働きを信ずる事が出来れる為に、皆さん本気で修行させてもらわにゃいけません。どげな修行させて頂いたらよかじゃろうかと。そりゃ皆さんのよかごとですから、工夫しなければいけん。その第一は神様が私共に実際に求められておる修行をさしてもらう事。神様が私共に求めておられる、例えばここに腹の立つ問題が起きたとするなら、その腹立つ問題そのものをです、腹を立てずにそれを修行と受けるという生き方。そういう生き方を身につけてまいりますと、神様を身近に感じる事が出来る。
 神様の働きをそこに見たり聞いたりする事が出来るようになる。そこからいよいよ神様の御心がわかり、御心に体したいわゆる神様の心に添い奉生き方が出来るようになる。いうなら真の人として、真の道を踏んで行く事が出来るようになる。これが有難いこれが楽な、だから真の道に出ておる氏子を神様がごらんになったときにもう真の道に出ておるのだからあの氏子も安心と言う、神様が喜び安心して下さるそれが私共の上に喜びとも安心ともなってかえってくる。
 信心生活というのは、喜びの生活安心の生活、成程金を杖につけば曲がると、どんなに金が沢山あったっちゃ、金はいよいよの時には頼りにはならん。例えばこの頃のの熊本のデパートの火事でもそうでしょうが。もうああいう場合に臨んだ時に金やら物やらでは役に立たんのだから。昨日私は中村さんから聞かせて頂いた。こんな身近なところに、あれがあったとは思わなかった。すぐ道ひとえ向こうの方が、あちらに縁につかれて、そのデパ-トに勤められて三日間じゃった。
 しかも昼と午後と、午後の方へ交替されてすぐ間もなくの火事であった。それで亡くなられた。先生あの方に私が、そうにゃ前々からあなたも金光様にいっぺん参りなさい。本当な金光様にいっぺん連れち参るというけれども。私だん悪いことせんけん神様にゃ参らんでよかと言いよんなさった。これも昨日の暁ですよ。三十日のあの、熊本なら松村さんが御礼に出て来ました。 松村さんの妹さんがデパ-トに買い物に行って出たのと打ち上げたのと一緒じゃった。
 もうそれを聞いて体ががたがた震えだしたという。本当に信心のあるものとないものとの違いをそこにはっきり感ずる様な。二つの話を昨日聞いてね、それを思いましたよ。だから本当に神様があるないのないのと言う様なものでなくてです、神様の働きをそこに見、感じれれるだけの神様を頂かにゃいけん。お願いをするおかげを頂く、おかげを頂く時は、ははぁ成程神様じゃなぁとこういう、けどもおかげ頂かんとこれは自分の信心が足りんのだとは思わずに。神様も良い加減なもんばいと言う事になって。
 信じようとかかっとった神様まで、また信じられなくなってしまう。だからそう言う事で神様がわかるのではなくてです、いうならば信心の稽古、その無条件の修行をさして貰うて、無条件に神様が現れて下さる働いて下さる。その働きを感じさせてもらう。体得させてもらうと言う事だまずは第一。それを神を信ずるものと言う事になる。それからいよいよ神様に信じられる私共がならせて頂くと言う事が実は信心の私共の眼目であると同時に、天地の親神様の又眼目でもあるわけですよね。
   どうぞ。